鈴木裕士さんインタビュー

千葉県富津市金谷、鋸山の麓<石と芸術のまち>を標榜、町の再生に奔走する金谷美術館理事長の鈴木裕士氏。
金谷はアクアラインを使えば東京から1時間とかからない。浦賀水道を臨み、東京湾の対岸三浦半島が本当に近くに感じる場所。金谷港からフェリーに乗れば40分で対岸の久里浜に着く。鋸山の山頂に立てば、富士山、スカイツリー、一日700隻の船が行き交う浦賀水道が一望出来る。貨物船、自衛隊の護衛艦、漁船、客船など、金谷にいると東京湾における船の交通量に驚く。

東京や千葉の人にとっては小学生の頃に遠足の場所として鋸山を訪れた人も多いはず。
以前は賑わっていた鋸山や金谷も東京から近いが町の人口は減少方向である。
金谷で生まれ育った鈴木理事長、30歳にして地元に戻り、実家の事業を引き継ぎ、ビジネスマンとして町に関わり町の状況を感じ、子供たちが通う小学校の生徒数の減少数を目の当たりにして行動を起こした。

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―なぜ石と芸術のまち金谷、なのですか?

大学卒業後銀行勤務、旅行会社勤務を経て父が経営する会社に入社して金谷に戻って来ました。2000年新しいタイプの複合型観光施設を金谷港に立ち上げ、ビジネスマンとして金谷を見ていました。
石と芸術のまちや金谷美術館までにたどり着くのには少し時間がかかります。
まず人口の減少傾向に驚きました。自分の子供が通う小学校の児童数が自分の頃より半数以下。人口も1700人程にない。年間30回近く葬式もありました。衰退して行くのを見て、金谷と言う町をもう一度考えてみると、通過点の場所であって目的地ではなくなっている。まず目的地としての金谷、そしてここで楽しめる環境を考え、もう一度金谷という場所を見つめ直してみました。

 

―そこで鋸山の石がまず考えられた訳ですね。

鋸山で採石される良質な房州石は江戸時代から重宝がられ、関東一円に今でも房州石で作られた壁や構築物が残っています。明治、大正時代の最盛期には村の8割が何らかの形で石材業に係わっていたそうです。鋸山、金谷は風光明媚な土地柄で多くの観光客や東京の別荘地みたいな所でもありました。鋸山にある日本寺は約1300年前、西暦725年に聖武天皇の勅詔を受けて行基菩薩によって開かれた関東最古の勅願所。東に聖地を作りなさいということで作ったとされ、日本寺は歴史的に見てとても大切な寺です。空海や源頼朝も訪れたという記録があります。頼朝はここで復活する為のお願いをしたらしいです。この日本寺を歴史的に紐解いたら結構面白いと思います。

―日本一の大仏の存在も知られていない。大仏と言えば、鎌倉か奈良と誰もが思ってしまう。
山の上にあれだけ大きな大仏があるのに認知されず、歴史的に大切な場所の割には以外と知られていません。

明治時代に23歳の夏目漱石が鋸山を訪れ、級友正岡子規に宛てた漢文紀行の中で鋸山のことを書いています。その時に鋸山の風光明媚なことに触れ、又歴史ある日本寺が時代の流れで衰退して残念ということを漢詩に残しています。
正岡子規も25歳の時に鋸山と日本寺を訪ね多くの句を残しています。
江戸時代に小林一茶は14回、この地を訪ねています。私の祖先と兄弟弟子だったという文献も残っています。
東山魁夷もここで代表作を描いたと言われています。
http://www.nihonji.jp/souseki_shiki/index.html

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日本寺の石仏

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地獄のぞき

 

―歌人、俳人にとっては聖地ですね。小林一茶や正岡子規が訪れ、句が残っているのですから。今的な表現をすると、この地に皆インスパイアされたということかもしれません。そんなこともあって芸術の方向に向われたのですか?

2010年に金谷美術館をオープンしたのですが、それはかなり時間が経ってからですね。町おこしを考えてから、あるNPOの集まりに出席して社会起業家を応援する方たちと知り合い、町おこしにはマンパワーが必要と感じた。イベントやったり、活動する為に動くと店閉めたり、仕事を休まなければならない。それでは本末転倒。それでは町おこしは無理。そこでボランティアの力とかを借りようと。
今、GONZOというピザ屋をやっている福倉君などが最初の頃から手伝ってくれ、色々動いてくれた。そのうちに移住して、仕事を始めた。房州石の石釜使ってのピザ屋。メディアにも取り上げられ結構人気です。ゼロからのスタートで色々ピザ作りを研究して、本当に美味しいピザ屋さんに成長した。そこから人と人の繋がりで新たな学生達が参加して色んなアイデアが生まれ、又美術品の収集家の方から、作品を寄贈してくださる方、無償で貸し出しをしてくれる方達が応援するから美術館をやりませんか、と励まされ金谷美術館設立に向って行く訳です。

―金谷美術館の取り組みなどを教えて頂けますか?

2010年3月にオープンして2年が過ぎ、今年2月に千葉県より公益財団法人に認定されました。展観事業および教育普及事業並びに地域社会の健全な発展を目的とする事業として認可されたわけです。

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金谷美術館に隣接する別館

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美術館館内から見える中庭

取り組みとしては一口館主として寄付をして建設に参加してもらったり、開館前の時間に草むしりや清掃を手伝ってもらい特別割り引きをするとか、100年後の金谷美術館を皆で一緒に造り上げて行くような活動を心がけています。
それらの活動が少しずつ認知される様になり、何年も閉まっていた施設を使わせて頂けるようになって来ました。それがKANAYA BASEなどに繋がって行きます。
合掌館やここ10年使用していなかったホテル、それも街道沿いの目立つ場所だったので町が良くなることならとご好意的により活用させて頂いてます。それをボランティアの学生達が壁を剥がし塗ったりとしながら面白い施設に変えてくれております。
それに加え所有者である大日精化工業さんが道路の反対側の海に面している200メートルにもわたる堤防の護岸工事をして下さり、多くの方のお陰でとても綺麗になりました。
http://kanayabase.com/

―隣のもと植物園も面白いですね。元プールだったとか、房総半島の形をした島?みたいなところや、橋があったり面白いスペースですね。

今年始めにバリ島のウブドの子供たちの素晴らしい絵と日本の子供たちの絵を飾る<海を越え支えあう子ども達展>を金谷美術館と金谷の町中という企画の展覧会を、子供たちの思いを東北へ!!ということで開催しました。その時に植物園をボランティアの学生さん達が凄い勢いで、あの広いスペースを掃除というより、残っていた植物や廃材などすべてを取り除いた。そして絵を飾ることが出来たのです。凄いパワーを感じました。
ここも新しいアートをみんなで作り上げる場所と考えています。何か試験的なこともここでは可能なのでどんどんトライして行きたいと考えています。

海を越え支えあう子ども達展の時に展覧会だけでなく、チャリティーパーティとして<世界一贅沢なBBQ@金谷xCHEF-1>という本当に贅沢なバーベキューパティーも開催されました。超一流と言われるイタリアンのヒロ山田氏、和食の笠原将弘、フレンチの山下春幸の三人が自慢の腕をバーベキューで腕を奮うなど、普段ではあり得ないイベントも金谷の人やボランティアの熱意を感じて参加してくれました。同時に二胡奏者のチェン・ミンさんのコンサートが金谷美術館で開催され、子供たちの絵に囲まれた会場にとても素敵な二胡の音色が響きました。(村長参加していたので)

 

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―KANAYA BASEが8月4日にオープンしましたが、ここは本当に面白そうですね!
オープンイングレセプションにも多くの人が来ていましたね。海を眺めながら楽しい時間と思い切り創作活動に打つ込めそうな場所だし、週末だけのマイ・アトリエみたいに出来ますね?

募金サイトのキャンプファイヤーで募金をして頂いた人たち、地元の人たち、たくさんの方に来て頂けました。
既にツリーハウスの第一人者の小林さんや熊本を中心に竹のライティングなどで活躍しているちかけんさんなども入居してくれております。ワークショップや美術展、アートや町ずくりに関してはどんどん色んなことに挑戦して行きたいですね。
オープンしたことで、色々なアイデアも生まれてくると思うのでこれからが楽しみです。
若い人たちがとてもクリエイティブで行動的で、芸術だけでなく、館山や海を使った遊びも提案したり、面白いことをいっぱい考えているようです。金谷の未来がとても楽しみです。

長い時間お付き合い頂き有り難うございました。
石と芸術のまち・金谷の将来が楽しみです。

 

インタビュー後記
オープニングレセプションにも参加させて頂きました。地元の方がとても期待していること、若いクリエーターが数多く東京方面から参加していたこと、アトリエから海を眺めていると週末ここに来て何かしたいと感じたこと、集まる人たちできっと何か楽しい企画が生まれそうと感じたこと、おとなの芸術村もここのリアルな芸術村を作りたいと感じた。
余談ではあるが、レセプション当日早めに行き、鋸山山頂へ。日本寺、大仏、地獄のぞきを探索。軽く考えていて、地獄のぞきでは完全に地獄の淵に立っていた。2時間程の山歩きを堪能。汗をかいたので金谷の海の見える温泉へ行き、ひと風呂浴びてレセプションに参加した。山頂から見えた海岸線でマリンスポーツも色々出来そう。
面白いことが期待できそうである。

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鋸山山頂から金谷港をみる

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